「景麒、景麒はいるか!」
 そう、自らを呼ばわる声は主のものだ。呼ばれるまでもなく、また振返るまでもなくその 気配はわかっていたが、それでも下僕は足を止める。これは麒麟の本能だ、と景麒はおよ そ理解をしていた。麒麟は皆、王がいとおしいものだ。頼られれば嬉しいし、姿を見れば 安堵する。視界に飛び込んだ鮮やかな赤、それに景麒は淡く微笑った。
「どうか、なさったのですか」
 言いながら、膝を折り主を見上げる。かつて主は臣に対し礼拝を禁じたが、景麒は例外と して認められた。主君を仰がずして麒が麒であれる筈がない、そう泣付いた末のことであ る。
「浩翰が休みをくれたんだ、好きなように過ごせ、街に出るのも止めないと」
「…存じております」
 何食わぬ顔で応えて、景麒は内心おや?と思う。近く主上に休養を、そう浩翰に掛合った のは景麒自身だったから、喜んで貰えたのならそれは嬉しい。だが、休みである筈のその 人は、未だ金波宮に、自分の目の前にいる。何故、と呟く小さな声は、主君のそれに遮ら れた。

「だから景麒、一緒に行こう。浩翰には許可を取ってあるし…それに厭とは言わせないぞ。なんでも麒麟という生き物は、主と共にあるのが幸せだというじゃないか」

 得意げな声でそう言ったかと思えば、強い力で手を引かれる。
 景麒はなぜだか、無性に泣きたくなってしまった。それは、初めて彼女を目にしたときの、あの感情と酷似している。此処だ、と思った。この方だ、と思った。私の幸せの、在処。


(20060130)景麒は陽子の明るさに救われるといい