「大切なものが増えるのは、しあわせなことだな」
 ぽつり、と。なんの前触れもなく、橘が呟いた。それは独白のようでもあったし、並んで歩いている睦月に言い聞かせているようでもあって、だから睦月は返事をすべきか困惑する。困惑して、そのまま返事をするタイミングを逃してしまった。
橘は今、睦月の前を歩いている。ゆっくりとしたテンポ、しかし確実に前へ進む。背を向けられているから、睦月からは彼の表情を見ることができない…表情が見えないという程度のことで、不安になってしまうような関係ではないのだが。しかし時折、睦月はぐらつきを覚える時がある。
(それは、おれが、子供だからだ)
 子供扱いをされるのは嫌いだし、そろそろ一概に子供と言えない年頃になっていることは睦月にも分かっている。だが大人ではない、決して。大人とは、橘のようなものを指して言うのだ。大人は睦月のように、かんしゃくをおこしたりはしない。大人はこんなに不安定ではない(但し、橘はかんしゃくを起こす代わりに時折ひどく憂鬱になるようだったが)。睦月は、はやく大人になりたい。
「…俺は小夜子が、桐生さんがたいせつだった。彼らを失って、たいせつな人はもういらないと思った。でも、」
「……はい、」
「たいせつがものがないのは、寂しい」
 ふと、何かを思い出したかのように、橘が足を止めた。
「寂しいのは、哀しいことだから、だから…哀しい人のために、やさしい気持ちは共鳴していくのだと、そう、」
 そうあいつは言っていたんだ・と橘は口にして、そしてほんのすこしだけ、微笑したようだった。『あいつ』。橘がなにも言わずにそう呼ぶ人間は、睦月の知る限りひとりだけだ。
「…ばからしいと思った、そんなに世の中がしあわせな構造をしている訳がないと」
「でも、」
「剣崎は、だれにでもやさしかったから」
「……そうですね」


 わらって返事をしたつもりで、しかし目の奥がつんと痛むのがわかった。過去を思い出して泣いてしまうのは、それもまた、睦月が子供だからだろうか。…橘はこうして笑っていられるのに、どうして自分は。
「剣崎にも、おれたちの気持ちが、なんらかの形で届いていればいい。…そんな風には思わないか?」
 振り返った橘が、俯く睦月を見てまたも小さくわらった。わらいながら、そっと睦月の背を包み込むように抱く。その手を、その温かさを、睦月は心地よいと感じた。
(きもちいい、な)
 この人のやさしさが、剣崎に届いていないはずがないと思った。


(05**** / 最終話後。睦月は子供なので、折り合いをつけられない)