貴方の言葉は、世界の法。貴方のすべては、私の宗教


 何かが壊れる時特有の、鋭い音。
 グラスを取り落としたのだ、とルーファウスが理解するよりも はやく、おそらくは音を聞きつけたのであろう、ドアを破る勢いでツォンが部屋へ飛び込んできた。
「ルーファウス様!」
 床に拡がる赤の色に一瞬、凍りついたかのように停止したツォンだったが、それがワインの色であ ることにすぐ気がついたらしかった。蒼褪めたその顔に、安堵の色がほんのりと差す。普段ならば、表情に乏しい部下。 その彼が自分の為に顔色を変えるのは、見ていて少し愉快だった。
「御察しの通り、私に怪我はないよ。安心したまえ」
「…お言葉ですが、病状は悪化しているように見受けられます。貴い御身に、何かあってからでは遅い。 あまり事態を軽視なさらないでください」
 全く、彼の言う通り。星痕に侵されたこの身体が、自由から程遠いということを忘れていた訳 ではないが、正直な所、甘く見ていたことは否めない。この車椅子がカモフラージュである ことは事実だ、しかし星痕と名付けられたこの病もまた、確かに身体を蝕んでいる。黒ずん だ膿は時折、何かの存在に反応をするかのように、激しい痛みを伴って疼き、そしてルーフ ァウスの体力を悉く奪っていった。これは報いだ。神羅はあまりに、この星に影響を与えす ぎたのだ。著しく衰弱したこの身体は、今やルーファウスの意思の支配下にない。かつての 星の支配者が、自分の身体すら自由に動かすこともままならないとは。
(親父が見たら、笑うだろうな)
 父、プレジデント神羅からルーファウスが与えられたもの。それはこの星で最も格調高い 生活、最も高等と言える教育、そして高価な品々や、かつて坐した副社長の座であった。 何一つ不便のないその生活に、しかしルーファウスは満足などしなかった。どれもこれも 望んで手に入れた物ではなく、真実、己のものとは言えない物ばかりであったからだ。 欲を掻き立てられない以上、そして欲を満たさない以上、それらはルーファウスにとって 全くの無価値だった…思えば、自分はあまりに高望みをしすぎたのかも知れない。父が死んで、結果、得たもの。手に入れるのも唐突なら、失うのも唐突だった。
「…はん、滑稽なことだ」
「軽視なさるなと、申し上げたばかりだと思いましたが」
 不快そうにそう言うと、濡れた床には頓着する様子を見せず、ツォンは腰を折って屈んだ。長い 指で無造作に、硝子の破片を拾ってゆく。袖から伸びた美しい手、その白さが眩しかった。それに引き換え、自分のこの腕はどうだ。その速度はとても緩慢ではあるけれど、星痕は徐々にその面積を広げている。もしかすると、このまま全身を侵すのかも知れない。こんな醜い病の為にこの星に還るだなんて、想像するだに恐ろしい。(一度死に掛けて、生き延びたせいだろうか。自分の死ですらこのようにしか捉えられない)(…まったく馬鹿げている)
「決めたぞツォン、この一年でこの病が治らなければ、お前が私を殺すんだ」
「…何を、」
「葬式はそうだな、極力質素なほうがいい。お前は棺に駆け寄って、私の屍に口付けるんだ。そしてマスコミの前で、私への愛を滔々と語ってみせる。どうだ、なかなかの美談だぞ」
「……ルーファウス様は、疲れていらっしゃるのです」
「疲れてなどいるものか、私は」
 言い終えるより前に、唇を塞がれる。舌を入れる訳でもない、ただ触れるだけの口付けに、ルーファウスは確かに酔った。暫くその状態が続き、ツォンがそっと身体を離す。
「口を慎むということをお覚えになった方が宜しい。 この世の如何なる法よりも、貴方の言葉は貴いのだから」
 ツォンの顔は影になっており、その表情を窺うことは叶わなかった。だがおそらく、微笑っ ている。慈しむようなあの瞳で、ルーファウスを見ているにちがいない。それは、憶 測より確信に近かった。赤子をあやすのと同じ感覚。子供に飴を与えるのと変わらない。ルーファウスは少なからず気分を害した。
「…もういい、さっきの言葉は撤回だ。私は矢張り、お前のことが嫌いらしい」
「存じております」
 応えた声は思ったとおり穏やかで、居た堪れない気持ちになる。傷付く素振りくらい見せてみろ、でないと嘘だと言えないじゃないか。ああ、くそ、苛々する。 お前など、私の言葉でどこまでも傷ついてしまえば良いのだ。


(20060320 / 限られた命を思って、とりとめのないことを考える社長。それに対する盲目的なツォン)