紅茶はいかが?
 パスを片手にいつものようにデンライナーへと乗り込んだ良太郎は、違和感に首を傾げた。彼は今昇降口に立ったばかりで、食堂車には入っていない。それでも確かに感じた違和は視覚的なものではなく、嗅覚的なものだった。  普段ならば珈琲の薫りのするこの列車に、今日は何故か、華やいだ紅茶の香りが立ち籠めている。
「(…ナオミさん、紅茶も出すんだ)」
 なんとなく、少しだけ感心しながら、良太郎は食堂車のドアノブに手を掛けた。

 食堂車へと踏み込んだ良太郎を迎えたものは、紅茶の薫りと焼き菓子らしい甘い匂い、カウンターに立つナオミと、ひとつの見知らぬ人影だった。ナオミと共にカウンターに立つ姿からこの列車の乗務員だと自ずと知れたが、それにしては随分と不似合いな格好をしている。その人はナオミのような制服姿で無いばかりか、灰色の作業服…もとい、ツナギを着ていた。
「だ、誰…?」
 思わず漏らしたその声はそう大きくはなかったが、その場のふたりを振り向かせるには充分であったらしい。見知らぬ乗務員の動きはワンテンポ遅れていたが、彼の人もまた良太郎の姿を視界に捉えるとぱちくりと目を瞬いた。どこか幼いその表情に、良太郎は、歳は結構近いのだろうなあと思う。…そうして見詰め合っていたのはおそらくほんの一瞬、けれど、良太郎にはとても長い時のように感じられた。割って入ったナオミの声にびくりと肩が跳ねたのは、それだけその時周りが見えていなかったからだ。
「良太郎ちゃん、こちら、ちゃんです!ちゃんちゃん、こちら、良太郎ちゃん!」
 花開くようにわらうナオミに良太郎もついつられるが、正直、それでは判らない。どうやら相手も同様らしく、呆れたように溜め息をひとつ吐くと、徐に口を開いた。
「…デンライナー専属技師の、です。よろしく」
「あ、はい、こちらこそ…」
 歩み寄りつつ無造作に差し出される手を、良太郎はためらいがちに握り返す。技師、というのはわからないが、なんとなく格好から、整備工のようなものだと想像は容易についた。細かいことは知らないままに電王を務めてきたが、そういえばこの列車とて勝手に動く訳ではないのだ。
「(さん。…時の列車の、整備をするひと)」
 ことりと小さく音を立てて、その情報は良太郎の意識の中に収められる。
「それで、君は?新規の客って感じじゃあ、ないように見えるけど」
「え、と…パスは一応持ってて、でも、僕は電王だから、お客さんっていう訳じゃ」
 真っ直ぐこちらを見据える目に良太郎はたじろいで、答えがしどろもどろになった。ひとの目を見て話すことが、良太郎は余り得意なほうではない。
「『電王』?電王っていうと、あの電王?」



花は折りたし梢は高し
 裏庭の桜が咲いた。
 店からは見えない位置に育つ木なので、良太郎と姉の愛理は少しだけ残念がった。ひみつの輪は小さいほど素敵だけれど、しあわせの場合はさみしい。桜の木には些か申し訳ないが、枝を手折って差そうということになった。
「折角きれいに咲いたんだもの。誰かに見てもらったほうが、桜だってうれしいでしょう?」
 おそらく店の倉庫で見つけたものであろう、古びた剪定鋏を片手に、愛理はうたうように言う。普段はおっとりしているのに、いざというとき迷わないのが野上愛理という人だった。言い出したら止まらない人でもあるので、良太郎は大人しく姉を手伝うことにした。

「それで、その、さんに」
 言葉と共に良太郎が差し出したのは、ひとふりの桜の枝。彼と花とを見比べて、現状と今の話を照らし合わせて、ははてなと首を傾げた。   …店の中に飾る為の、桜ではなかったのか。
 が何か言おうとするのを気配で感じ取ったのか、良太郎はほんの少しこちらを窺う様子を見せた。身の丈は彼のほうがある筈なのに、俯いている為に上目遣いになる。は思わずどきりとした。
「やっぱり…迷惑だった、かな」
「っ、そんなことない!」
「迷惑でないのなら、受け取ってくれますか」
「いや、でも…」
「"でも"?」
「…それを受け取るのは、本当に私でいいの?」
 だって、そこまでしてもらう理由がないよ。がそうあっさりと続けるので、良太郎は困ったように微笑する。ちくり、と胸に小さな痛み。わざとではないのだと良太郎にもわかっている、けれど、彼女の言葉はまるで鋭利な刃物だった。



砂糖菓子の夜
 真夜中の食堂車は、静か。はそのカウンター近くのテーブルに俯せるようにすわって、硝子製のティーポットをぼんやりと眺めている。まあるいかたちをしたそれはほんのりと色付いて、薄い飴色をしていた。そして今なお華やかな香りと共に飴色は深まるばかりだ。…こんなふうに、どんなものも少しずつ、変化してゆくのだろう。例えばそれは、誰かに恋する気持ちだとか。

 が彼と出会ったのは冬と春のあいだのことで、時とは何ら縁のない彼女がそれを覚えているのは彼が初めて寄越した花が桜であった為だった。時の列車に不似合いなその様子を訝しみ問いただせば、早咲きの桜の花をお裾分けに来たのだという。そんなことをする客はデンライナーに勤めて初めて見たものだから、は少し意外に思い、またいとおしく感じたのだった。
   さんだから、貰ってほしいんです。
 それは来たる春の心地に相応しい、柔らかな音色だった。が恋に落ちたとすればおそらくその瞬間で、けれど彼女はその時点では何ひとつ知らなかった。自分の中にひっそりと咲く花があること、そしてその花の名前も。咲き誇るその花に気付いた頃にはもう手遅れで、それでもは見て見ぬふりをすることにした。
(…ああ、でも、もう限界なのかもしれない)
 良太郎と一緒にいればいつだって、ではいられなかった。


(2008****)こっそり書いていた電凹連作。初々しい恋愛を書きたくて