夜の帳もすっかり降りて、城は眠りについていた。夜風に当りに表の庭を歩いているとどこからともなく背を射る視線、微かな気配に振り向けば見知った男が佇んでおり、光秀は彼らしくもなくはたりはたりと目を瞬く。それというのもその男、今朝方葬儀を出されたばかりの部下なのだった。


「私の姿が…お視えになるご様子ですね。どうやら余り、驚かれた風ではないが」
 死してなお美しい、彼の人のかんばせには疲労の色が見えている。己れの死と向き合うことが彼をそうさせたのだろうか、光秀はそう思うも確信は抱けなかった。何故なら彼は彼岸を見たことがないのである。序でに言えば、興味もない。彼を強く魅了するのは死ではなくその過程、即ち、苦痛。だから死者には然したる用も無いのだが、彼はしばしばその眼に彼岸の者を映した。どうやらこちらに用がなくともあちらには用がある、そういうことであるらしい。
「驚きはしませんが、意外には思いますよ。、貴方がこの世に未練を残しているとは」
光秀が応えると、と呼ばれた亡霊は控え目に微笑する。花開くようなそれは、月明かりによく映えた。
「未練といえば、未練でしょう。残した母が気掛かりで参ったのです…泣き疲れて、先程漸く眠りました」
 光秀の乳母の家のひとり息子、それがこのであった。ふたりが出会ったその当時、光秀はまだ初陣も迎えておらず、桃丸と呼ばれていた。にも何かしらの幼名があったのだろうが、光秀はそれをもう記憶には留めていない。何故なら彼はのことをただ鴉、と呼ばわっており、名を必要としなかったのだ。ともあれは、光秀の身の周りの世話役兼暇な折の相手としてその半生を過してきた。光秀にしてみれば、唯一の友といえる存在だった。
「…、私は」
「はい」
「私は、貴方の葬儀で泣くことができなかった。気が動転してしまって…思えばそう、貴方の死んだあの瞬間から、私はどうにも可笑しいのです。確かにここには、哀しみがあったというのに」
   ならばその哀しみは、このが喰らったのでしょう。それに私は、まだ御身のお傍にあります」
 胸を押さえる光秀の手に、幽霊の手が重なる。優しい声音と、心の臓まで届くようなその冷たさに、光秀は目を閉じた。


(070816)未完