たとえば朝から雨の降った午後などに、彼の右腕はきしり・と声をあげて啼くことがあった。彼そして彼の弟曰く本来そこに生えているべきものは東部の内乱で失われたとのことだったけれど、わたしはなんとなくそれが嘘であることを知っている。それはある種の予感のようなもので、だからあまり当てにはならないのだけれど。いずれにしろ彼及び彼の弟はあまり自らの過去について触れようとしない。だからわたしも訊かないようにしている。
「ココア淹れたんだけど、飲む?」
「……あー、そこらへん置いといてよ」
 わたしの祖父は古書店を営んでいて、内乱で両親を失ったわたしは6年ほど前にここに引き取られた。古書店の収入などたかが知れたもの、どうやって生活をするのか当初わたしは危惧したものだが、こうやって彼のように国家錬金術師の肩書きを持つ人々が次々に店を訪れぱらぱらと蔵書をめくっては(本を購入するわけでもないのに)大金を置いていくので生活は割に裕福な方だった。どうやら彼らにとってこの店の蔵書は宝の山であるらしい。国立中央図書館の職員が訪れた時など、ここの蔵書を譲与してくれまいかという申し出にわたしは目を丸くした(ちなみにその時は丁重にお断りして帰っていただいた)。
「…泊ってくでしょ、もう遅いし」
「…………ん」
「クリームシチューつくるから、楽しみにしてて」
 返事は、ない。どうやらまた研究に没頭しはじめた様子である。わたしが小さく息をつくと、彼の代りにアルフォンスくんがすみませんと謝った。ここだけの話、わたしはこの子が少々苦手だ。彼はひどく繊細で他人に対して寛容だけれど、彼のそのやさしさがわたしには痛々しい。
「夕飯つくるの、手伝ってくれないかしら」
 にこり、と微笑ってみせるとアルフォンスくんはあわてて立ち上がった。図体に見合わない子供らしい仕草にももう慣れてしまったが、何故だか矢張り不思議な気がする。
 わたしの祖父は昨年の冬にはやり病で逝ってしまった。あまりに突然のことだったので、わたしはこの半年の間ひとりで生きていく術を必死で習得しなければならなかった。店を訪れる国家錬金術師の面々にかつての祖父の部屋を宿として提供し、その代償として世の中のことや錬金術、そしてお金をうけとる。それがわたしの今の生活だ。
さん、大変でしょう?」
「…どうして、」
「まだ若いのに、一人で暮しなんて」
 アルフォンスくんの身体は重い。彼が一歩進むたび、階段が悲鳴をあげた。


 クリームシチューなどというものを、わたしは滅多なことではつくったことがなかった。5年近くも祖父の好みに合わせて味の薄い食事ばかりを口にしていたわたしには、シチューであるとかグラタンであるとか、そういったものの味覚は余りに強烈すぎたのだ。それでもしっかり作り方を覚えているのは、やはりこの兄弟の影響が大きいのだろう。彼らときたら頻繁に顔を出しては後先を考えないで研究に没頭するものだから祖父の生前からよく泊っていくことが多かったのだった。
「アルフォンスくん、小麦粉とってくれない?」
「ええ、とこれって小麦粉ですか薄力粉ですか」
「…薄力粉は小麦粉の一種、」
 ついでに言うとこれはパン粉、とわたしが言うと、アルフォンスくんはばつがわるそうにすみませんと謝った(錬金術は台所で生まれたなんて嘘だとおもう)それにしてもよく謝る子だ。兄に欠けている謙虚さというのをぜんぶ背負って生まれたのじゃあないだろうか。そういえば以前ここに泊っていった誰かがこの兄弟の話を楽しそうにしてくれた。彼らも大変だねと、そういったのは年若い軍人であったはずだ。
さん、おなべふきこぼれますよ!」
「え、」
 気が付いたときにはもう遅かった。わたしの手にはあついシチューがどろり、とかかっている。それの発する熱に一瞬、驚いて身動きができなかったが、かと言って慌てもしなかった。むしろ慌てているのはアルフォンスくんのほうだ。わたしの後ろで「やけど、やけど!」とあたふたしている。別にいいわよとわたしは言ったけれど、彼は痕になったらたいへんですからと言って譲らない。握られた手首から、熱がどんどん奪われる。
「アルフォンスくんの手、冷たいのね」
「?…ええ、鎧ですから」
 怪訝そうに応えるアルフォンスくんにふふふ、とちいさく微笑う。そこにとびこんできたのは、室内だと言うのにも拘らずトレードマークの赤いコートを纏った彼の兄の声だった。
「……なに、手なんか握り合ってんの、おまえら」
 気色悪いぜと続けるエドワードくんに、アルフォンスくんはまたもあたふたとしてわたしの手を離す。それに対しわたしはやはり落ち着いたまま、『いえ、ちょっと火傷しちゃって』とエドワードくんにひらひらと手を振った。
「火傷…?」
「そう、火傷」
「……手、かせよ!」
「なにもそんなおこらなくたって」
「バカ痕になったらどうすんだ」
「アルフォンスくんと同じこと言うのね」
 そうわたしが言うと、エドワードくんはぴたりと動きをとめた。くるりと首をまわして、アルフォンスくんの方を向く。いっぽうアルフォンスくんはというとすっかり逃げ腰だ(何故?)。そもそもなぜエドワードくんの矛先がアルフォンスくんに向くのかが最大の謎である。
「アあぁ…ール」
「うわあ兄さん、おちついてよちょっと!」
 パン、というのはエドワードくんが両の手を合わせた音だ。事情はひとつ不明だが、どうやら兄弟喧嘩らしい(家を壊すのはできればやめてほしいものだ)(まあ、彼らにかかれば家の修復なんて簡単なのだろうが)。テーブルの片隅、祖父の写真が目に入って、わたしは僅かに目を細めた。


 ボクと兄さんがはじめてここに訪れたのは、兄さんが国家錬金術師になってすぐのことだった。『人体練成に関する情報を手に入れたいのだろう?』とマスタング大佐が紹介してくれたのが、この古本屋だったのだ。はじめて会った僕たちに、氏はとても親切にしてくれた。…そして、その孫であるさんも。
「少し見ない間に、きれいになったね」
「…なにがだよ」
さん」
 ボクがみじかく応えると、兄さんはすこしむっとしたようだった。兄さんははじめてここに訪れたあの日からずっと、さんに恋をしているのだ(なんてわかりやすい)。そして未だに、それを自覚してはいない。ボクはべつにさんに恋をしているわけではないけれど、でもさんのことはとても好きだ。彼女はとても親切だし、ボク達を家族のように思ってくれているし、ボク達もまた、彼女のことを家族のように思っていると思う…その筈だ。
兄さんの脚(機械鎧のほうの脚だ)がほこりの積もった床を滑る。舞い上がったほこりが、きらきらとひかっていた。
「…兄さん」
「なんだよ」
さんって、似てると思わない?」
「誰に!」
「……ごめん、忘れて」
 ここに訪れるたび、思うことがある。いつも途中まで口にしかけて、そしてやめている、こと。兄さんもそれに気が付いている。そしてそれを認めたがらない。認めようとしない兄さんに無理矢理真実をつきつけても何もいいことはないし、ボクだってほんとうは真実なんて見たくはない。
 それでも、真実はボク達の身近に転がっている。彼女の控えめなわらいかただとか、咎めるときの怒ったような表情だとか、兄さんのためにクリームシチューをつくってくれたりするところとか。

…死んだ母さんによく似ているのだ、さんは。



(20050716)二年前の作品を修正。未完